桃川燕雄(エンユウ) 講談『寛政力士伝~雷電の初土俵』 小山觀翁撰集
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- Опубликовано: 6 янв 2025
- 安藤鶴夫の直木賞受賞作
「巷談本牧亭」のモデルとして一躍有名になった人
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桃川 燕雄
モモカワ エンユウ
講談師
本名河久保 金太郎
生年月日明治21年 12月21日
出生地東京・四谷
経歴
無類の記憶力と博識で無数の演題をそらんじ、
多くの同業者が教えを受けた貴重な存在だったが、
名人ではなかった。実力がありながら、
余りに伝統に即した古風な芸風が時代に合わず、容れられなかった。
明治36年に桃川実に入門以来、生涯同じ芸名。
晩年、安藤鶴夫の直木賞受賞作「巷談本牧亭」のモデルとして一躍有名になった。
没年月日昭和39年 4月2日 (1964年)
伝記貞丈のお笑い芸界銘々伝 一龍斎 貞丈 著(発行元 日本デザインクリエーターズカンパニー ’90発行)
出典:日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について
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寛政力士伝 (かんせいりきしでん)
講談。
4代横綱谷風とその弟子雷電および小野川の3名の力士を中心に,
佐野山の孝心,稲川の義俠などを描く。
なかでも谷風の七善根,雷電の封じ手,
小野川雷電遺恨相撲などがおもしろい。
小田原の仇討相撲は一席物として今日でもよく演じられる。
これを語って有名な真竜斎貞水(しんりゆうさいていすい)
(のちに早川貞水,1917没)は
国技館木戸御免であったし,
貞鏡時代の1896年に《寛政力士伝》を刊行した。執筆者:吉沢 英明
出典:改訂新版 世界大百科事典
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『寛政力士伝~雷電の初土俵』あらすじ
(かんせいりきしでん~らいでんのはつどひょう)
【解説】
雷電為右衛門(1767~1825)年は、現在の長野県東御市出身。寛政期に横綱の谷風、小野川とともに江戸相撲の黄金時代を築いた。21年間の現役生活中、通算成績は254勝10敗2分、勝率は9割6分2厘と圧倒的な強さを誇った。史上最強の力士と言われながら横綱にはなれなかったが、その理由については諸説がある。
【あらすじ】
江戸時代でもっとも相撲の盛んだったのは寛政年間である。横綱は谷風梶之助、小野川喜三郎、そして横綱以上の実力があったと言われているのが雷電為右衛門(らいでんためえもん)である。深川の富岡八幡宮には横綱碑があり、雷電だけは天下無双の力士と刻まれている。
雷電は信州の片田舎で育ち、一旗あげようと江戸へ出て、浦風林右エ門の元に弟子入りする。しかし浦風部屋には大した力士がいなく、稽古を付けてもらえない。雷電の身体を見た横綱の谷風は感心して、自分のところへ預けてもらいたいと言う。『一枚あばら』というからあばら骨が太く、一枚の板のように見える。また『桶側胴』といって肩から腰まで桶のようである。谷風の部屋で雷電はみっちり稽古をする。すでに三役くらいの実力があるのだが、初土俵でいきなり三役というわけにはいかない。谷風は年寄と相談し、張出の幕内として土俵に上がることになる。
蔵前の八幡宮での春場所。初日は友千鳥との対戦である。観客はいっぱいだが、『友千鳥』の掛け声ばかりが聞こえる。ただ一人、『雷電』と声を上げる客がいる。谷風は「ありがとうごんす」とお辞儀をする。「はっけよい」と軍配が上がる。両者がっぷり組むが、十分な稽古をしている雷電は、右手でまわしを掴む。吊り上げると友千鳥は足をバタバタさせる。ヒョイと土俵外へと吊りだす。これを見ていた観客はみな呆気にとられる。
翌日は出水川という中堅力士との対戦だが、いとも容易く土俵の砂に埋める。雷電の評判は上がる。
3日目、小野川部屋の関脇、八角との対戦である。谷風は心配する。八角に左を差させると大変な力が出る。雷電にはどんなことがあっても左を差させてはならない、右肘を固く脇腹に付けるよう助言する。観客は雷電が三役力士と当たるということで盛り上がっている。八角の背丈は六尺五寸、雷電はそれよりも大きい。場内が沸きあがるなか、勝負が始まる。両者立ち上がって突っ張りあう。2人は左右に分かれ、八角は左手を前に出す。雷電は右手を前に出す。このままでは両者どうしようもない。雷電は八角がどれほど力があるのか試してみようとバンザイをする。八角は左を深く差し、頭を低くして身体を前に寄せる。さすがの雷電も後ろへズズズと下がる。土俵際まで追い詰められて、腰を割る。雷電はビクとも動かない。雷電は八角の左手をぐっと握るがこれがすごい力だ。八角が左手に気を取られている間に、雷電は左の横面に張り手を決める。たまらず八角がぐらつくと今度は右の横面を張り手する。八角はフラフラになり、ドスンと倒れる。雷電に軍配が上がる。観客は大歓声を上げる。
倒れた八角は立ち上がれない。小野川部屋の若い衆が大勢駆け付け、抱えられて退場する。医者の手当の甲斐があって夜には八角は息を吹き返した。小野川は年寄にあんな危ない手は使うべきではないと訴える。訴えが認められ、雷電の張り手は封じ手になる。初土俵から封じ手を言いつかったのは雷電くらいである。
続いての地方巡業で、三役の力士、小野川部屋の鯱(しゃちほこ)は参加しないという。兄弟子が負かされたのが悔しくて、荒縄に石をぶら下げてゴツンゴツンと頭を鍛える。雷電との対戦でこの石頭をぶつけると、さすがの雷電もよろめいて尻餅をつく。それより前に反動で鯱は飛ばされて土俵を出てしまう。勝負は雷電の勝ちである。鯱は頭突きが封じ手になり、さらに雷電は閂(かんぬき)と鉈(なた)が封じ手になる。しかしそれでもますます強みを発揮して、史上最も強い力士として後世に名を残すのである。
参考口演:二代目神田山陽
出典:講談るうむ
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名人神田伯山の元お抱え車夫だった川崎福松老人と、裏長屋で4個10円の夕方の特売コロッケを分け合って食う、寒々とした情景。時代は昭和34年くらいかな。
川崎福松が三代目のお抱えというのは、どうもアンツルの創作のようですが…。『巷談本牧亭』の燕雄と福松の友情はいつ読んでもいいものです。